魯 迅
luxun ロジン(1881-1936)
- 生まれと環境
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1881年中国浙江省の紹興に生まれました。多くの農地を所有する裕福な家庭で育ちましたが、13歳の時災難に見舞われて親戚の家にあずけられました。
魯迅は、18歳の時に故郷・紹興を出て南京で学び、そこで近代思想と科学に接します。
2つの学堂で学び、卒業した後、日本留学に派遣されました。魯迅像・東北大学片平キャンパス - 来日
- 東京の中国人留学生に日本語と日本文化を教える学校で予備教育を受けた頃に、医学を専攻することを決心しました。その理由は新しい西洋医学が日本の維新に大変役立ったらしいということからでした。
- 仙台へ留学
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魯迅は中国人留学生のいない医学専門学校に入学したいと考え、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に無試験・入学金と授業料免除の留学生として入学しました。この頃は日露戦争の真っ最中でした。 東北大学・片平キャンパス東北大学正門の道
- 魯迅と藤野教授
- 仙台最初の留学生の魯迅を気遣い、日本語の聞き取りの手助けをしたのが藤野厳九郎先生でした。藤野先生は、魯迅の講義用ノートを朱筆で添削しました。のちに、著作「藤野先生」の中で魯迅はこのように書いています。
「わたしの講義ノートは、始めから終わりまですっかり朱筆で添削してあったばかりか、たくさんの抜けている部分が書き足してあり、文法の誤りまでいちいち訂正してあったのだ」 魯迅は藤野先生との思い出を作品に残し、故郷に帰ってからも藤野先生を敬愛し続けました。 - 医学から文学の道へ
- 仙台医学専門学校に在学中に、医学から文学の道に転向を決意しました。それは、講義の余った時間で、日露戦争の映写を見たときのことです。ロシア軍のスパイ容疑で捕まえられた中国人が首吊りの処刑にかけられるところを同国人が、見物人として取り巻いていた場面でした。
その映像を見た魯迅は、どんなに体が強壮でも人々の意識・精神革命がなければ、祖国は救えない、と確信して文学運動を始めようと医学校を2年で退学し、再び東京に戻って文学の勉強に専念しました。特に関心をよせた文学者が夏目漱石でした。 - 故郷へ
- 日本から帰国した魯迅は、北京で文部官僚として教育改革に携わります。一方文学による革命運動や執筆活動をはじめました。魯迅は中国文学史上で初めて口語による小説「狂人日記」を発表しました。
「阿Q正伝」は東南アジア各国でもっとも読まれている作品です。魯迅は中国文化に近代的革新をもたらした他に、他の国々にも多大な影響をもたらしました。 - 江沢民主席仙台訪問
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1998年11月に中国の江沢民国家主席が仙台を訪れ、魯迅記念碑や階段教室を訪れました。 また、江沢民主席が訪問された時、以下の内容の直筆の漢詩が渡されました。
「丹楓火に似て秋山を照らす
碧水長えに流れる廣瀬川
且は看ん空に乗り萬里を行くを
東瀛と禹域とその誼は相伝えるべし」広瀬川



